橋口 譲二
1949年、鹿児島県生まれ。
地元の大学を1年で退学して上京。写真を学ぶために写真学校に入学するが、学園紛争のためにほとんど写真の勉強はできなかった。写真の基礎は後日、大学できちんと写真を学んできたアシスタントたちから教えてもらう。
東京の街をウロウロする中で路上に関心が向いていった。全ての人たちに開かれているはずの道路、路上が人を選んでいる事実に気がついた。いつのまにか街が人を選び始めていた。そんな価値観が社会を支配し始めていく中で、人を選ばず誰でも居させてくれる新宿や渋谷の街、路上に関心が湧いた。特に新宿歌舞伎町界隈の路上では、家にも学校にも居場所を探せない少年少女の姿が多く目に止まるようになった。自然に関心は路上の少年少女に。この頃から、「自分を殺さず、他人も殺さない生き方」を模索する自分が生まれる。新宿で写真を撮ることが日常になり始めた頃、従来の価値観や生き方に縛られることなくオルタナティブな生き方を模索する詩人や絵描きたちと出会い、彼らから精神的な影響を受けた。
1981年に新宿や原宿の路上に集まる少年少女を撮った『視線』で太陽賞を受賞。太陽賞の受賞がきっかけになり、写真家としての活動が広がり始める。東京、新宿からN.Y.、ロンドン、リバプール、西ドイツのニュルンベルク、西ベルリンの路上に。1982年、写真集『俺たち、どこにもいられない』を発表。『俺たち、どこにもいられない』の撮影中、目の前の現実に気持ちがついていかなくなると、気がつくと動物園に逃げ込んでいた。『俺たち、どこにもいられない』を写真集にまとめ終わると、「人はなぜ動物園を必要とするのだろうか」と考えるようになり動物園を訪ねることにした。北半球に位置して政治体制の異なる12の都市の動物園を訪ねる。モスクワ、ブダペスト、ウィーン、西ベルリン、ロンドン、エルサレム、デリー、ホーチミン、上海、東京、N.Y.、メキシコ。1989年、写真集『動物園』を発表。
日本と日本人を知る仕事。
1986年、日本の様々な場所で生きる人たちのポートレートと言葉を記録する写真家としての新たな旅が始まる。自分と同じ時代の空気を吸い、同じ日本という国で今を生きている人たちを知りたいと思った。
最初に向かい合ったのは「17歳」の少年少女たち。なぜ17歳かというと、17歳は大人でも子供でもなく、人生を決めて行くうえで重要な年齢だと思ったから。17歳は高校生だけではなく、競馬の騎手、プロボクサー、お相撲さん、舞妓さんと、すでに大人の世界で生きている人たちもいる。中学校を卒業すると同時に働き始めている人たちもいる。その片方でどう生きていいかわからず、社会に属することなく新宿歌舞伎町でウロウロしている人もいる。17歳を探して、日本列島を北から南まで走り抜けたいと思った。
普通の日本人を撮るときに覚悟したことは、何かの縁で出会い言葉をもらい写真を撮らせてもらった人は、写真の出来不出来に関係なくセレクトすることなく写真集に必ず収めるということ。セレクトしないということは人を選ばないということ。人の存在は等価だという自分の思想が大きい。人を選ばないということ以上に大事にしたことがあります。それは僕は記録屋で繋ぎ屋に徹するということでした。記録屋に徹し橋口が作品から消えることで、写真集に登場する人と見る人との対話が始まるからです。そして共通質問を用意し写真に言葉をつけた理由は、写真だけでは伝わりにくい個の多様性を目で読める形で日本社会に示したいとの理由からです。同時に写真集と出会い、そこにいる彼ら彼女たちと対話をする糸口にしてほしいとの思いからです。
日本と日本人を知るための仕事は戦前、何かの切っ掛けで南洋やアジアの各地に渡り、戦後も日本に戻ることなくその地で生きる人たちを訪ね歩く仕事に発展する。
日本と日本人を撮る一方、普段から芸術は勿論のこと教育に参加できない少年少女を対象にしたアートワークをインド、ベトナムを中心に10年間続ける。アートワークを実施するために、日本は勿論その国その街で大勢の人たちのサポートを受けての10年間でした。